神霊記録18
雲見神社6回目 2020年11月7日(土)
11月6日(金)夜、岐阜に住む長女が電車で我が家に帰省した。
特に理由はなく突然だった。
11月7日は雨の予報で農作業もできないので、夕食を食べながら西伊豆
雲見神社へ行くことになった。
長女は妻からイワナガヒメノミコトとコノハナサクヤヒメノミコトが我が家
に来てくれたことを聞いていて、雲見神社に行きたかった。
奉納されたイワナガヒメノミコト画像
イワナガヒメノミコト祝詞
本殿前はオーブが出ます
雨の予報が遅れているので、頂上に向かう
急勾配の石段
中間にも祠
頂上の祠
富士山方面、6回来たが富士山は一度も見えない
南方面
雲見温泉の集落
左が烏帽子山、真ん中が弁財天が祭られている 正面建物はダイビング拠点
松崎町山神社2回目 2020年11月7日(土)
ピーナッツを立てたような石は蚕のまゆ 明治時代養蚕の拠点だった
松崎町は伊豆半島西南の辺鄙な地域だが、栄えた歴史があります。
調べ不足でざっくりだが、武田信玄から勝頼に仕え織田徳川軍に
滅ぼされたときに武田軍の家臣だった依田一族がここに逃げ、
生き延びた。
明治時代には庄屋だった依田氏が山梨県より養蚕の技術を導入。
妹と若い血縁女子の6人を群馬県富岡製糸場へ2年間修行に出し、
絹糸の一大生産地として栄えた。
温暖な養蚕に向いた気候のため、全国の絹糸の相場の基準だった
時期もあったそうです。
山神社の由緒書きで初めて知りました。
オオヤマツミノカミのご加護で栄えることができた感謝の文面です。
2017.11.3 伊豆松崎の忘れ去られた歴史考
伊豆松崎の忘れられた歴史考 | 日本旅のペンクラブ
吉田 良正 氏著
早春の2月下旬、久方ぶりに「花とロマンの里」松崎を訪ねた。
日進月歩で様変わりするご時世にあって、食いしん坊の私が好んで
通った大沢温泉にある「鮎の茶屋」、松崎町内の蕎麦処「小邨」や
鰻の「三好」、松崎の古き良き時代を彷彿とさせる喫茶店
「フランボワーズ」など、すべて健在だったのが嬉しかった。
歴史の宝庫でもある松崎は、江戸時代の松崎が生んだ漆喰鏝絵の
名手・伊豆の長八の作品を集めた「長八美術館」や国の重文指定
「岩科学校」、江戸城建設時の石垣に使われた御影石を切り出した
跡の「室岩洞」などが歴史的観光名所になっているが、松崎にとって、
もうひとつ忘れてはならないのが生糸に関する歴史である。
気候温暖な松崎は、日本で最初に繭相場が開かれ、その年の生糸の
値段が決められた。
かつて、対米輸出の花形であった絹は日本国内よりもアメリカでの
方が有名だった。
甲州・武田勝頼の重臣だったという大沢温泉ホテルを経営する依田家
の祖先が天目山の戦いに敗れ、この地に逃れ住み大城屋として
定住した。
明治初年、11代当主・依田左二平の時、区有地を開放して桑畑を作り、
養蚕を開始。
民間としては最古の製糸工場「松崎製糸」を開業した。
製品は那珂川を川舟で松崎港へ運ばれ、大船に積み替えられて海路
横浜へ運ばれた。
群馬の「富岡製糸」から現在のほぼ旧国道16号線を通り、横浜の
渋沢倉庫へ運ばれたのが陸のシルクロードなら、松崎からの海路は
さしずめ海のシルクロードだ。
山深い飛騨地方から身売りされ、安い賃金で泣く泣く働かされた女工
たちが「女工哀史」として知られた長野「片倉製糸」をはじめ、同様の
苛酷な労働条件下にあった各地の製糸工場とは打って変わって、
松崎製糸では高賃金、高待遇で雇い、これからは婦女子にも教育が
必要と、学校令ができる以前に雇用する女工のために松崎小学校の
前身「謹申学舎」を創設。
更に険しい峠を越えずに通行できるよう、私費で婆沙羅峠に手掘りの
トンネル(現在は荒れ果てて通行不能)を掘り、下田へ通ずる道を確保
して「豆陽学校」(現下田北高)を開校して、女工たちを通わせた。
このように大切に扱われたので、巷では娘が松崎製糸に勤めていると
羨ましがられたという。
大正6年、工場は松崎へ進出,この当時が松崎製糸の最盛期であった。
生糸で栄えた大沢の里も大正8年、左二平が中風で倒れ、不景気な
時代背景もあって衰退の一途をたどりはじめ、大正12年の関東大震災
で横浜の渋沢倉庫に預けてあった生糸が罹災し、松崎製糸も倒産した。
後の大沢温泉ホテルの先代(17代)当主、故・依田敬一氏は昭和50年
から3期12年間、松崎町長を勤め、松崎町を「花とロマンの里」の
キャッチフレーズで一躍世に知らしめた人である。
松崎最大の産業だった生糸の歴史は、つい先年まで市内の目抜き通り
の一隅に繭を象ったモニュメント、国道136号線沿いにあった
「繭の資料館」も今はなく、重文「岩科学校」の一隅にひっそりと
展示されているのみ。
誠に淋しい限りである。
まゆの資料館(解体済)
松崎は古くから早場繭の産地として知られ、この地方における養蚕の
起源は、少なくとも二百余年も前から行われていたとある。
特に幕末から明治の始めにかけては、横浜の生糸商人が大量買い
付けに訪れ、その初繭取引で決められる“伊豆松崎相場”は、欧米
にまで知られるほどだった。
(初繭取引松崎市場)/明治5年大沢村の名主依田佐二平は、
この年我が国初の官営製糸工場として開設された群馬県の
富岡製糸場へ、自分の一族から若い女性6名を派遣、製糸技術を
進んで習わせた。
フランス人ポール・ブリューナーの指導によってつくられたこの工場は
当初女工のなり手がなく、尾高淳忠初代所長はまず自分の娘を女工に
してから、全国各地の士族の娘を募集した。
この事実をみても、依田佐二平の女子派遣が当時としてはいかに思い
切った行為であり、また時代の先見性に富んだものであったかが
しのばれよう。
/ともあれ明治8年、技術を習得した一行が帰郷するのを待って
佐二平は、松崎町字清水に水車を動力とする25人繰り富岡式木製
製糸機械を設置、生糸の試作を開始した。
さらに明治9年、この工場を大沢村の自邸(依田家)内に移転し
、松崎製糸場の
名で40人繰り、のちに60人繰りに拡張して、本格的製糸場を営むに
いたった。
これは静岡県下の民営製糸工場としては第1号であり、明治後半、
松崎周辺と県内各地に続々と製糸場が設立される大きな
きっかけとなった。
/その後、明治末期にかけていくつかの工場が経営に行き詰まり、
倒産や廃業が相つぎ、変遷はかなり激しいものがあった。
それでも明治44年当時の加茂郡では、松崎製糸場(釜数77個、
就業日数280日、就業時間12時間、工員数71人、人夫4人)をはじめと
して、岩科村の岩科、三浜村の勝田、南中村の山本、稲生沢村の
河内、稲梓村の鈴木、下河津村の正木、同・河津の8製糸場が操業。
このほか座繰りの5ヶ所を合わせると、総釜数433個、女工総数442人、
総生産量4,787貫、総生産額198,681円に達した。
/養蚕を通じて農家の経済をゆたかにし、地域の産業振興をとめざした
佐二平は、優良桑苗を無償で配ったり、良質繭の生産者を表彰したり、
繭と生糸の品質向上のために全力をそそいだ。
/明治31年には、静岡県生糸同業組合長となって活躍。
やがて、明治40年アメリカで開催されたセントルイス博覧会では
銀牌を、アラスカユーコン太平洋万国博覧会では金牌、イタリア博覧会
の際には名誉賞状を受けるなど、数々の栄誉に輝いた。
/しかし、繭取引で賑わった松崎も製糸で栄えた大沢の里も、不況時代
を反映して次第に衰退の道をたどりはじめ、大正8年佐二平が病に
倒れたあげく、同12年9月1日発生した関東大震災によって横浜港の
倉庫に保管中の生糸が被災するにおよんで、ついに倒産のやむなきに
いたった。
2018年05月27日(日) [日帰り] |
晴れ |
利用交通機関
行き伊豆急・稲梓駅まで輪行 帰り 伊豆急・稲梓駅から輪行 全線自転車を使用 経路を調べる(Google Transit)
|
過去天気図(気象庁) | 2018年05月の天気図 [pdf] |
---|
個人装備 | ロードレーサー+SPD(歩ける自転車靴) |
---|