神霊記録12
ウッドハウスおろくぼ 2018年5月2日
ウッドハウスおろくぼ | 大自然に包まれたリゾート施設。
静岡県榛原郡川根本町水川866-5
思い出の場所の一つだ。
ゴールデンウィークなので森林浴を兼ねて気晴らしに二人ででかけた。
私が前の会社に入社したのが、昭和51年3月、大学での専攻科目は
土木工学だった。
当時の当建設会社は道路工事が儲けの主体で、林道工事も含まれていた。
入社2年目から掛川支店に配属となり、夏場5月~10月、5年連続で南赤石
幹線林道新設工事に携わった。
24才から28才まで、今思えばよくやったと思う。
人生の一番若く青春を謳歌するときに、俺は山の中で仕事だけだ。
林道工事の仕事が嫌になれば会社を変わるか、職種を変えるしかない。
利益追求主義の会社で、土木と林道工事の仕事に嫌気が差したので、
せめて業績が伸びて順調な建築部に移りたく試験の勉強をした。
29才の時建築の2級建築士の試験を受けて、1次試験は合格、土木特に
林道工事に嫌気がさしていたので、上司に土木から建築への変更を具申。
社長判断でやる気を認められて、すぐに社内で建築部に移動。
丁度その頃結婚した時期で、あわただしく良くやってこれたと今でも思う。
南赤石林道工事
総合建設業 中村建設株式会社(静岡県浜松市)60周年特集
【なかけんの歩み 1960-1969】
【南赤石林道工事】
国内で初めて林道工事にブルドーザーを導入した中村一雄その功績は土木
技術業界にセンセーションを巻き起こし、後の中村建設発展の基礎を築くこと
になった。
1960(昭和35)年、中村一雄が二代目社長に就任。
当時は公共工事の実績が少なく、競合の少ない山間僻地の開拓工事に活路
を求めた。
その象徴ともいえるのが39年の南赤石林道工事である。
敗戦から20年。
急速な高度経済成長を遂げる日本で、地方都市浜松にも労働運動の波が
押し寄せ、ストライキの波紋が広がりつつあった。
弊社は1966(昭和41)年に全員経営参加という目的で、初の社員総会を開催。
1968(昭和43)年には、肩書きに関係なく、すべての社員が公平に一構成員
であることを目指した組織「中建共済会」が発足した。
昭和30年代後半、浜松建設業協会には100社に及ぶ業者が加入していた。
会社創設からまだ歴史の浅い中村建設は、公共工事の実績が少なく、2代目
社長に就任したばかりの中村一雄は、後発というハンディをどう克服するか
模索していた。
当時、県の西部地区には、交通の不便な山間僻地の、しかも危険度の高い
林道工事に手を出すような業者は皆無だった。
そこで一雄は、「人の嫌がる、競合の少ない工事=林道開発工事に重点
を置こう」と閃いた。
昭和39年5月、東京営林局から榛原郡本川根の南赤石開発幹線林道工事を
1億4千万円で受注。
標高1000mの断崖を切り拓き、道路延長4.5km、幅4.5mの自動車道を造ると
いうものだった。
施工前、調査グループを現地に派遣。
南赤石連峰周辺は、大札山、竜馬ケ岳、蕎麦粒山など、1600m級の人跡未踏
の深山が連立している難所だ。
その山頂を縫って開発するのがこの幹線林道である。
この路線は80%が岩肌を現わし、雑木が生えているとはいえ、その不気味さが
恐ろしいまでに感じられる。
受注した喜びも束の間、果たしてこんな難工事が工期内に完成できるのか
どうか、調査団は大きな不安と焦燥に襲われた。
調査を指揮した鈴木稔は、「通常の人力作業では期限内の竣工は不可能です」
と一雄に報告した。
南赤石林道工事そこで、一雄は社運を賭けて英断する。
「ブルドーザーを投入せよ!」鈴木はもちろん、山間僻地の林道工事を5年間
専任して来た永山も、作業責任者の野島もみんな唖然とした。
こんな地盤の不安定な林道工事に機械を使うとは、誰もが予想もしなかった
からだ。
地形から懸念されたのは、ブルドーザーが迂回できるかどうかということ。
勝負はこの一点で決まるのだった。
5月6日、総動員で地形の調査を開始。
岩肌の見える急斜面では、ブルドーザーの迂回は不可能だ。
全員の失望は大きかった。
ところが、ある職員から、山頂は意外に緩やかな勾配であるとの報告が
舞い込んだ。
これにヒントを得て、尾根伝いにブルドーザー10台を入れる計画を立てた。
調査した結果、西方を走る山脈をよじ登り、その尾根伝いに進路を開設すれば、
ブルドーザーを迂回投入できる可能性が判明した。
こうして11kmに渡る迂回道の建設を開始したのだ。
やると決めたら絶対に諦めない不撓不屈の精神。
先代社長の竹蔵から受け継いだ、技術への執念である。
いよいよ、ブルドーザーによる決死の前進が始まった。
が、前人未踏の原始林を前進する作業は危険と困難を極めた。
巨大な岩を砕き、原始林を拓き、丈なす熊笹を掻き分け、眼下に雲を踏まえ、
ブルドーザーの本領を遺憾なく発揮したが、難所に次ぐ難所の連続で、
苦難に身も心も疲労困憊を極めた。
南赤石連峰ことに水源地はなく、キャンプ地から往復3時間余もかかる谷間
から水を運ぶ状態で、身体は汗と垢で黒ずみ、作業着は裂け、何日もの幕舎
生活で身体の休まることもなく、体力と精神の限界に挑戦し続けた。
夜は、静けさの中にフクロウの声が轟き、時にはサル、熊、シカ、タヌキ、狐
などの来訪で熟睡できるはずもなく、下界では想像もできない劣悪な環境
だった。
昼は峻険に挑み、夜は毒蛇などの危害を排除しつつ苦闘すること10日余り、
ついに計画地点にブルドーザーを進出させることに成功した。
10台余りのブルドーザーは、全工区の各所で逞しい轟音を響かせ、日ごとに
山容を変えていき、道路の形が徐々に見え始め、着工してわずか4か月足らず
という驚異的な短期間で達成した。
6月1日、ついに目的地に着いた。
一同の腫れ上がった目には疲労の色も見えず、飛び上がらんばかりの歓声が
山にこだました。
従来、林道工事を施工する場合、工費が5千万円、工期が4か月位の規模の工事で
あれば、労務者が100人〜150人は必要だった。
しかし、ブルドーザーを導入すれば30人前後で済む。
また、山間僻地で多数の労務者を雇用することは、安全問題も含めて、
労務管理に大きな困難が伴い、それも悩みの種だった。
そんな問題解消も含めて、林道工事に初めてブルドーザーを使うことを考えた
中村一雄の功績は、当時の林業土木技術界にセンセーションを巻き起こした。
数年を待たずして、林道工事の施工法が人力からブルドーザーへと移行された
のだから、その萌芽はまさしく中村建設が蒔いたといっても過言ではない。
この画期的な工法は、中村建設の名を全国に轟かせ、その後の社の発展の
基礎を築くことになった。
大井川から5kmほどの場所がおよそ南赤石幹線林道の起点で、そこが
おろくぼ村と言われ平家の落ち人の集落と聞いた。
今から42年前の昔話だ。
時間は少しさかのぼるが、テーマごとに文面を作らないとストーリーが自分でも
分からなくなる。
竹下首相のとき、ふるさと創生事業として各自治体に一億円交付され、使い道
は自由と記憶している。
この交付金で建てられた記憶。
私が前にいた会社で、昭和64年~平成元年に静岡県磐田郡龍山村
(合併後 浜松市天竜区龍山)に、ふるさと村という鉄骨構造のペンションを
新築したあとくらいに出来た記憶。
ふるさと創生事業(ふるさとそうせいじぎょう)とは、1988年(昭和63年)から
1989年(平成元年)にかけての日本で、各市区町村に対し地域振興のために
1億円を交付した政策である。
正式名称は自ら考え自ら行う地域づくり事業
(みずからかんがえみずからおこなうちいきづくりじぎょう)。
1億円を交付したので、ふるさと創生一億円事業とも言われる。
概説[編集]
昭和から平成にかけてのバブル経済の中で行われた政策事業で、当時の
内閣総理大臣竹下登が発案した公共事業である。
事業内容は地方交付税から交付団体の市町村一律に交付、その使い道
について、日本国政府は関与しないとした。
30年ほどたつが、営業しているようだ
近くに大井川が見下ろせる場所がある
ズームでみると大井川鉄道の蒸気機関車に合わせ鉄撮りが橋の上で待機
見晴台がありこれも観光施設
ふるさと村 撮影2019年7月
ペンション 龍山 ふるさと村
ふるさと創生事業(ふるさとそうせいじぎょう)1988年(昭和63年)~
1989年(平成元年)。
竹下首相のとき、ふるさと創生事業として各自治体に一億円交付され、
使い道各自治体の自由。
この交付金で磐田郡龍山村 村長より工事発注、当時の私の会社が受注。
昭和63年に私が請負責任者で施工。
設計監理は浜松市の大手建築設計事務所。
森林ばかりでなにもない国有林を切り開いて土木造成、進入路スロープ築造、
基礎工事、鉄骨建て方、屋根工事、サッシ工事、ガラス工事、外壁工事、
木工事、木製建具工事、塗装工事、内装工事、タイル工事、
給排水衛生設備工事、電気工事、外構舗装工事、不便な山の中によく
造ったものだ。
通勤は自宅から2時間近くかかるため、最盛期は現場事務所に宿泊。
電気、電話はさらに奥にある営林署用に通っていたので、使用できた。
飲み水は、水中ポンプで横のきれいな川からくみ上げ飲み水、
工事用に使用。
水曜、土曜日に自宅に帰り、地元の食品店で買い出し自炊しながら仕事をした。
自宅新築が3月から年末までかかり、同じ時期だった。
住居は自宅近くの県営住宅に結婚してから住んでいた。
毎年ゴールデンウィークごろドライブとわらび取りに出かけていたが、大和さんに
鑑定してもらうようになって神社、仏閣へ出かけるようになりここへ来たのは
しばらくぶりだ。
人影がなく近寄ってみたらペンション施設は無人で閉鎖していた。
帰って調べると2018年6月で閉鎖されたようだ。
1990年あたりから営業されて、管理人の家族が替わり、2代目の小川さん夫妻
で切り盛りしてくれていました。
ふるさと村まで天竜川分岐点から10km、40分かかり、山道が半端でなくすごく
不便なところだが、自然環境がよくリピーターが多く支えられていたようだが
残念だ。
平成5年に浜松市に合併して行政も運営資金が底をつき、必要性の低い施設は
次々と統廃合されている。
自然環境が売りだけでは、赤字垂れ流しで廃止もやむを得ない。
瀧原宮(たきはらのみや) 2019年8月3日
鑑定してもらった時期は忘れたが、長女の前世の一つは4500年前の古代
エジプト王朝クフ王の4人の妃の一人と分かっていた。
その後ひかるさんに観てもらったときに、「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に付き
従っていた巫女の一人だった」と言われていました。
よせしさんは右肩にアンテナがあるが、娘さんは手の平がアンテナだ。
手の平から霊波が入り、反対の手の平に抜ける。
よせしさんは宇宙との交信用で超遠距離用、長女は近距離用。
ここ半年以内のことだったと思う。
長女は前日我が家に泊まり、ただ帰るのももったいないと8月3日の真夏に
帰宅する前に参拝しようと車に乗せて出かけた。
外気が熱すぎて15年たったシエンタはクーラーの効きが悪かった。
クーラーを強くするが後席の長女は熱いを連発、そのうち寝てしまった。
行先は瀧原宮(たきはらのみや)と伊雑宮(いざわのみや)、長女はどちらも
初めてだ。
私は、行けばなにか起きるかもしれないと考えた。
瀧原宮到着 長女と妻、元気いっぱい
参道下のきれいな川で手を清める
参拝順序
瀧原宮
伊雑宮(いざわのみや) 2019年8月3日
本殿前
長女は顔から上半身が冷たくなる
ここが一番ひどかった
ヤマトヒメが住んでいた場所の案内
ヤマトヒメ2000年前の住居跡
近くに磐座がある
磯部の御神田
神社南にある
森が伊雑宮
長女は瀧原宮は元気に参拝したが、伊雑宮駐車場から降りた時、すごく寒気が
すると言った。
真夏の午後で外気温は30度以上だ。
こじんまりとした境内を進み本殿前で参拝、戻ろうとすると
「顔が冷たい、肩、腕も冷たくなる」と長女が苦しそうに言う。
妻と驚いたが、しばらくすると動けるようになった。
ヤマトヒメの2千年前の住居跡、さらに奥に歩き磐座参拝して駐車場へ戻る。
帰りの車の中で長女は爆睡、1時間ほど寝て特急の止まる近鉄の駅へ着き、
元気の戻った長女と別れた。
「長女の前世が出たのではないか」私は妻に言った。
翌日写真を印刷して大和邸に送り、ひみこさんから返事を待つ。
その翌日にひみこさんから電話。
「娘さんの前世が切れました」、とひかるさんが言いました。
長女はやはりヤマトヒメに付き従い伊雑宮の境内で2千年前に亡くなった
ようです。
その時の苦しさ、未練が今も残り、当時の魂の一部を引きずっていた。
前世の未練が、この時にスッパリと切れたのでした。
砥鹿神社(とがじんじゃ) 2019年10月19日
三河國一之宮「砥鹿神社」|愛知県豊川市
岐阜に住む長女は元気が戻ったが、今度は妻の具合がよろしくない。
私はそこそこ元気だが、肩、首のコリがひどく大和邸で鑑定を受けました。
鑑定が始まり、妻を観たひかるさんはいつもの瞑想。
「宝珠だ」、ひかるさん。
妻の先祖で神様の修行を相当積んだ人がいて、神様から宝珠をいただいた。
その先祖の人が妻を頼ってきてしまったとのこと。
場所は、豊川市の本宮山にある砥鹿神社。
平地の神社でなく山頂の方です、そこへ行くだけでいいです、ひみこさん。
なんでもあり状態で本当に体が悲鳴をあげてしまう、今回は妻だ。
近いからまだよかった、と休日に二人で出かけた。
子供たちが小さいころから何回か参拝している。
先に豊川インター北2kmほど里宮とよばれるところへ参拝。
この神社がが中央構造線の真上にあるそうだ。
ここから北西に走り、本宮山山頂を目指すが小雨で写真を撮らなかった。
砥鹿神社 里宮
里宮本殿
鳳来寺山
納めてもらうまでしばらくあるので、修験者はこちらのほうが本宮山より有名。
本宮山より北東15km。
鳳来寺と鳳来山東照宮~井伊直政も見た壮麗的な三河の景色
景色のいい観光地でもある
鳳来山東照宮
鳳来寺 鳳来山東照宮より奥にある
調べると中央構造線、修験者、金、水銀(丹)がヒットする。
中央構造線はどこを通っている? | 大鹿村中央構造線博物館
中央構造線
H21.kin-oni.kouzousen (1).pdf
日本列島を縦横断している大きな断層のことか?
修験者は修行をしながら、スポンサーのため金、水銀(丹)を探していたようだ。
奈良金峯山寺、大峰山、高野山などを通っている。
四国は空海が開いた真言宗の寺の下を通っている。